カリスマ扇動者としての小林よしのり考察 〜つづき〜


そして今回ゴー宣SPの中で特に論じていこうと思う、「いわゆるA級戦犯」を表記します。

いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL

いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL



はじめに評論としての小林は、マンガ評論家の呉 智英(くれ・ともふさ)先生と私は以下の点において全く同じ感想を持ちます。
一つ目
小林は大変メジャーな、”売れる””世間を動かす””心に残る”作品を何作も出すこと。しかしながらその作品は読み手にとって好き嫌いが非常に分かれること。
それは即ち、呉先生が小林の作家性を一言で明言した「異常天才」のキャッチコピーが全く当てはまると思います。


二つ目
初期のゴー宣で呉先生が悩ましく言った、「小林は現実で論評するより、物語で人を感動させて欲しい」。これもまた全く呉先生と私は同じ考えを持っております。
小林はたった一人個人で日本の世論をリードすることのできる非常な稀な存在です。
言い換えると日本を誇るカリスマ扇動者です。


ここで断っておきますが、小林は自作を「思想漫画」と称しておりますが、正確には異なると私は思います。小林個自身の思想変化漫画ならば的を得てますが。
初期の段階では小林は右往左往しましたが、戦争論以降右翼思想家になりました。
しかし、作品を出すにあたって、「新しい思想」を生み出すことより、「歴史の検証」に焦点が置かれていることは著作を見ればわかります。小林は過去の歴史検証において極めて勤勉に作品化した作家だと私は思うのです。


小林先生にとって値千金の創作・執筆時間は、リアリズムな論評で使われるよりも、ファンタジーな物語で使って欲しいと私は強く思っております。


しかし、「戦争論」以降、思想を変えず、絶え間なく作品を作り続けている作家に対して、敬意を表し小林先生の語る土俵で私個人の意見を言おうと思います。


小林はデビュー一貫、そもそも逃げるような作家ではないです。
ちょっと小林の歴史を振り返って見ましょう。
1.デビュー早々週刊少年ジャンプとの戦い(「東大一直線」)
2.フリー漫画家での苦労
3.「おぼっちゃまくん」で大ヒットしたにも関わらず、PTAにも同志である漫画家にさえけなされたこと
4.薬害エイズ問題に議論だけではなく自ら行動を起こしたが、自分の設立に関わった団体に批判され、脱退し、解散せよと反論したこと
5.オウム真理教では作品で取り上げただけで暗殺沙汰・裁判沙汰になったこと
6.小林の漫画を借用することで本を出版したことについての著作権裁判
7.ごく短い期間だが、台湾において「台湾論」の焚書
並べて見ましたが並の人間じゃ務まらないことを一人の人間がひとつの人生でこれだけの事件と直面し続けてるんですね。恐ろしいとしか言いようがないです・・・


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私の論旨は大きく分けて二つあります。
一つ目はゴー宣SPが漫画ではないこと。
二つ目は天皇制そのものを直視して小林の遠慮のない解釈で語って欲しいこと。
です。


一つ目のゴー宣SPが漫画ではないことは、最近の著作物を見れば一目でわかります。
漫画と文章のボリュームが半々くらいになっています。
具体的例を挙げると「いわゆるA級戦犯」での漫画の掲載は、東条等A級戦犯になってしまった方の客観的な人生記としての役割が主です。
つまり、小林自身が「自分は漫画家だ」と明言しているのにも関わらず、漫画が本の半分のボリュームしかないのに漫画と主張するのにはちょっと無理がありませんか?


歴史実証をするのにあたって、漫画というメディアは結局のところ不可能、もしくは今のところかなり困難であると私は感じます。
小林が漫画で本格的な歴史実証をした最初の作品は「戦争論」だと思います。
この作品は”漫画”で太平洋戦争の肯定を、国のために国民が頑張る素晴らしさをあますことなく感動的に語っています。小林のペンに宿る、漫画という力の勝利といってもいいでしょう。
しかし戦争論2・3以降、非常にページが増え、論旨が飛び飛びになり、一冊の漫画であるのにもかかわらず、通読し理解をするには大変困難な書物になったと私は思います。


戦争論2・3から、ゴー宣SPで文章での補足が始まったと思います。
結果、作業が大変な漫画で何十ページをかけて読者に語りかけるよりも、1ページの文章のほうが早く読者に理解できると、アンケートや市場を求める声があったのか、また小林もそう考えたのか、文章での論述がだんだんと比重が増してきました。


さらには漫画のネーム(漫画の設計図のこと)において、小林はゴー宣発表以降、徐々に文章で語ることが多くなりました。画が主役だったものが、ふきだしが主役になり、今や文章に画がかろうじてついている状況です。これを漫画といえますか?戦前戦後にあった少年雑誌の漫画以前の主役であった「絵物語」といったほうが早いのではないですか?
ちなみにこの傾向は大家の漫画作家にも当てはまります。
吾妻ひでお先生の「うつうつひでお日記」、ジョージ秋山先生の「聖書」
どれも文章が主役で、画は飾りです。
なぜなのかは今回の論旨とはずれるので、残念ですが検証はしません。
蛇足ですが上記2作品は作家があえてこだわってそのように創作していると明言しております。


二つ目。
小林は自他ともに認める一大識者となりました。
それは太平洋戦争の検証(戦争論)、靖国神社の合祀問題(靖國論)、東京裁判の検証(いわゆるA級戦犯)という何作もの作品を執筆されていらしゃっていることからもわかります。


しかし、私は歯がゆいのです。
太平洋戦争を語ろうが、靖国を語ろうが、東京裁判を語ろうが、論旨の礎になるものは天皇制をどう評価するか?につきると思うのです。
左翼から考えれば、戦前も戦後の今も日本をダメにしたのは天皇のせいだと一口で語るかもしれません。
今までの論旨から、小林は天皇陛下を擁護し、天皇制を肯定する論者だと推測します。


今までの小林の作品は、巨大な衛星群を作ってきたのだと思います。
太陽系に例えるならば、戦争論等の作品が地球等の惑星に当たります。
しかしながら右翼であろうと左翼であろうと、全体主義者であろうがリベラリストであろうが、太平洋戦争・靖国を語る本当の主役は「天皇制」しかないと思います。
主役は太陽系の真ん中に位置する太陽です。天皇を語ることはいわば、天を照らす神である、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を語ることかもしれません。


世論をリードし続けてきた小林にとって、「天皇制」を語ることはもはや避けられないことだと思います。もしかして小林本人も本当は書きたくてしょうがないテーマなのかな?と私は思ってます。
それは以下の事実から推測できます。
雅子様がご成婚されたとき、当時「ゴー宣」を連載していたメジャー雑誌SPA!で天皇家をほんのちょっとからかうようなギャグネタで「蒲焼の日」という作品を書きましたが、編集サイドの判断で「とにかく天皇陛下を語ることは危ない」と没になりました。


現実は厳しいです。


その原稿を小林が持っていったのは、名門マンガ誌であるガロです。
ガロがマンガ誌として社会・作家に対して表現の自由を守ったことは、大いに評価があって良いでしょう。


マスメディアで小林が堂々と「天皇制」を語れる日がいつくるのか、期待して筆を置きたいと思います。